水俣の文化人シリーズ② 徳富蘇峰
- shoko-p
- 2月9日
- 読了時間: 4分
今年1/18にアップしたブログに
「水俣は 淵上毛錢だけでなく、徳富蘇峰蘆花兄弟、谷川雁、石牟礼道子と
素晴らしい文化人を輩出してきました。
その辺りもまた追々(笑) ご紹介していきますね」
と書いたので、早速ですが、追々とは言わず、がんがんご紹介していきたいと思います。
と言いますのも、ワタクシが2013年から綴っているブログがありますが、
これは合唱団のこと、所属する演奏家協会のこと、そして水俣のことを発信したくて
始めたものです。(ほぼ日記ブログのようになっていますが)
その中に、水俣の文化人10人ほどのご紹介をした「水俣の偉人」シリーズがあるので
それをコピペして少々の直しを加えて再投稿のような形になるので、決して大変な作業ではないことを言い添えておきます。あと、主観入りまくりなのはお許しください(;^_^A
シリーズ①は1/18投稿の淵上毛錢ということになるので
第2弾は徳富蘇峰で。
水俣の人なら 誰もが知っている徳富蘇峰です。
でも実は何をした人かを知る人は少ないと思います。
水俣で毎年開催される「蘇峰展」という子どもたちにもなじみ深い書道展があるので、
お習字の先生?ぐらいに思っている子どもがほとんどではないでしょうか。
私の母校、水俣第一小学校校歌の歌詞は蘇峰によるもので、
「この校歌の歌詞は、徳富蘇峰というとても偉い人が作ったんだよ」と刷り込まれ、
子どもながらに誇らしかったものですが、何をした人かはさっぱりわかりませんでした。
では、何者だったか・・・。
文久3年(1863年)生まれ、昭和32年(1957年)没(94歳)
ジャーナリスト 評論家 政治家 歴史家として、明治 大正 昭和にわたり言論界の
リーダーとして活躍しました。「国民新聞社」を設立し「国民新聞」を発刊しています。
55歳から35年かけて著した超大作「近世日本国民史(全100巻)は
(織田信長から西南の役まで)民間史学の金字塔と言われています。
水俣の文化向上にも尽力しました。
私も小学校の頃お世話になった「棋水文庫」という図書館、
今は 蘇峰記念館になっていますが、この「棋水」は 蘇峰のお父さんの雅号です。
「市民の精神文化の燈明台になってほしい」と蘇峰は多額の基金と蔵書2400冊を寄付し
昭和5年に開館されました。
2013年の大河ドラマ「八重の桜」にも登場しました。
新島襄と八重さんが関わる青年時代はクリスチャンの洗礼を受け、まだ 自由主義、
平民主義を説いていた頃の蘇峰なので、まだ 目のキラキラと輝く好青年でしたが、
日清戦争(1984~1985年)以降、国家主義者に変わっていきます。
その変容ぶりが(「変節」という言葉で言われていたようです)激しかったので
批判も大きかったようです。
弟の蘆花も そんな兄に絶交状を本に発表して、ずっと疎遠だったそうですが
蘆花が亡くなるときは「日本一の兄だ」「日本一の弟だ」と声をかけあい
周りの人たちに「兄をよろしく頼む」と言い残して亡くなったそうです。
蘇峰が「大正6年(1916年)に発表した『大正の青年と帝国の前途』の発行部数は
約100万部にのぼりました。当時のベストセラー作家 夏目漱石の「吾輩は猫である」が
12年かけて1万1500部だったそうなので、その影響力の大きさたるや です。
第2次大戦後は A級戦犯容疑もかかっていたそうで・・・(高齢のため許されたとか)
水俣で 蘇峰のマイナスの側面を語ることはあまりありません。正直、それはどうなの?
と個人的には思います。そういう面も含めて伝えるのが教育だと思うのですが・・・
(高校生の時、新聞に、原爆の授業をした教師に校長が「そんなことをしたらアメリカが
原爆を落としたことを子供たちが知ってしまうじゃないか!」と叱ったという記事を読んだ時のショック!それと同じ匂いがする)
ただ 日本の近代史に絶大な影響力を持っていたことは確かで、それは
日本が歩んできた道のりの上で、存在するべくして存在した人だったのだと思います。
~蘇峰はむしろ時勢に即して最良の歴史的選択を構想し続けた思想家であり、「日本国民の活題目」における判断は、変化する時代の潮流のなかで、その時々において最も妥当なものでなかったかと論じ、むしろ、日本人がどうして蘇峰のこうした判断を精緻化する方向に向かわなかったのかに 疑義を呈しているのである~
という海外の研究者もいます。 (Wikipediaより)
歴史書に関しては、神武天皇から南北朝時代までを徳川光圀が「大日本史」として著し、
そのあとの室町時代の一部が抜けますが、織田信長から 西南の役までを蘇峰が書いたと
いうのだから、ありがたい話ですよね。
「所謂(いわゆる)過去を以て現在を観る、現在を以て過去を観る。歴史は昨日の新聞で
あり、新聞は明日の歴史である。従つて新聞記者は歴史家たるべく、歴史家は新聞記者たるべしとするものである。」
蘇峰の言葉です。
最後まで「記す人」 自分が「記者」であることに誇りを持っていた蘇峰。
「ペンは剣より強し」の代表格でしょうね。
批判も色々あるでしょうが、やはり 水俣の誇りであることに違いはありません。
水俣市浜町の蘇峰蘆花生家
(写真は水俣市HPよりお借りしました)

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